池上彰・新井紀子対談の国語教科書批判に見られる二つの問題

初記事です。書くことがなさすぎで、深夜のテンションで書きました。
※2019年4月29日に一部修正・追記

近頃、新井紀子氏の国語教育(教科書)に関する発言を読んで、批判の必要を感じていました。
Twitter上では、氏の批判を書くとブロックされるのが通例のようで、ご本人に届かないと思ったので、この記事を書きました。
私の認識が間違っているという場合はぜひご批判ください。


問題にしたい記事は、週刊文春5月2日・9日ゴールデンウイーク特大号http://shukan.bunshun.jp/articles/-/11135*1池上彰新井紀子両氏による対談の最初のページです。
私が新井氏の発言を批判する軸は次のようになります。


対談の話題は、ネット上で新井氏が高校の国語教科書について発言し、それが炎上した、という内容から始まります。
新井氏が問題視するのは、中島敦山月記」、夏目漱石「こころ」、森鴎外舞姫」といった、いわゆる「定番教材」です。
これらが男性作家によるものでジェンダー的観点に欠ける、という問題提起であったことを池田池上氏*2が紹介します。それをうけて新井氏は

「この多様性の低さはいったい何だ」

高校の女子生徒が、捨てられた舞姫や、自殺してしまう「先生」の奥さんに気持ちを重ね合わせたり共感できるかといったら、できませんよね。いまの時代においても男性と女性で苦悩や挫折の形は違うので、主人公にも共感できません。

と、女性登場人物への共感が困難であること、女子生徒は主人公への共感も困難であることを批判します。

高校国語で教材への共感は必須ではない

私がまず指摘したい部分です。
文部科学省が出している、現行の「高等学校学習指導要領解説(国語篇)」(高等学校学習指導要領解説:文部科学省)では、全82頁中で7回共感」という言葉が登場します。
教科書は「学習指導要領」と「教科用図書検定基準」等に合致しているか検定が行われ、学校の授業は基本的に「学習指導要領」に従ってデザインされます。「学習指導要領解説」というのは、「学習指導要領」をさらにかみ砕いて解説した文書になります。

今回問題になっている作品はすべて、高校2,3年生向けの「現代文B」という科目の教科書に掲載されています。
「共感」が登場するのは、

  • 「国語総合」3回
  • 「国語表現」1回
  • 「現代文A」2回
  • 「古典B」1回

で、そもそも「現代文B」では「共感」について言及されません。ちなみに、どれもが「要領」本文部分ではなく、「解説」部分です。
「現代文B」に強く関連する科目は「国語総合」と「現代文A」ですが、これらの「解説」内で登場する「共感」のうち、読むことや読書に関する項目で登場するのは以下の3回です。

人物の心情に思いをいたすことによって,自らの生き方と重ね合わせ,人物に対して共感したり反発したりする中から,生徒の想像力,豊かな心情や感性が養われていく。

引用元:「高等学校学習指導要領解説(国語篇)」>「国語総合」> 3 内容 > C 読むこと > ウ 表現に即して読み味わうことに関する指導事項

「ものの見方,感じ方,考え方を豊かに」するためには,書き手の意図をとらえ,共感したり,疑問に思ったり,思索したりして,文章を読み味わうことが大切である。それによって生徒は自らの心情を豊かにし,思考力や想像力を伸ばし,人間,社会,自然などに対して自分なりの考えをもつようになっていく。

引用元:「高等学校学習指導要領解説(国語篇)」>「国語総合」> 3 内容 > C 読むこと > オ 読書をして考えを深めることに関する指導事項

「文章に表れたものの見方,感じ方,考え方」には,書き手が自分の言葉として直接表現しているものの見方,感じ方,考え方と,書き手が設定した文章中の人物などを通して表現しているものの見方,感じ方,考え方とがある。読み手はそれを読み取り,共感したり,反発したりする。ここでは,様々なものの見方,感じ方,考え方があることを知り,視野を広げることが大切である。

引用元:「高等学校学習指導要領解説(国語篇)」>「現代文A」> 3 内容 >ア ものの見方,感じ方,考え方を読み取り,考察することに関する指導事項

このように、「学習指導要領解説」において、「共感」するかどうか、どう味わうか、という部分は、生徒に任されていると理解できます。
さらにいえば、「国語総合」の近代以降の文章について読むことの発展教科である「現代文B」は、「読み味わうこと」以上に文意を「的確にとらえ」ることが重視されている科目です。(引用が煩雑で面倒になってきました)

つまり、作中人物に共感できるかどうかという観点から、教科書掲載作品およびそれを選んできた人々を批判するのは、適切ではありません。
もちろん、「共感」に重きを置かない「学習指導要領」は正しい教育ではない、という体制(文部科学省)批判を形成することはできると思います。
私はそれとは異なる教育観を持つので、支持しませんが。

また、先に挙げた定番作品に対する文学側からのジェンダー的批判は、たびたび繰り広げられています。
CiNii Articles - 日本の論文をさがす - 国立情報学研究所で作品名と「ジェンダー」と入れて検索するだけでも、「こころ」「舞姫」のジェンダー論はヒットします。新井氏はご自身の所属先のデータベースで一度も探したりなさらなかったのかな。


さて、対談に戻ります。
新井氏はある特定の教科書を挙げ、次のように発言します。

ある教科書は、小説や評論など二十三編が載っている中で、女性の筆者は二人だけ。しかも一人は、明治時代の樋口一葉です。

これがもう一つの問題点、

データの使い方が適切ではない

という点です。

いうまでもないことですが、極端な例を持ち出して印象を操作するのは、科学的な論述とは言えません。
今年度から使用される高校の国語教科書については、各出版社のリンクが
平成31年度版高等学校教科書のご案内|教科書|一般社団法人教科書協会にあります。
それぞれの出版社のページを見ると、同じ出版社の同じ教科でも、対象生徒に合わせていくつかの教科書をつくっている場合があります。
「新選」などがつく方の「現代文B」の教科書では、「舞姫」が採択されないことなどもままあります。

新井氏が提示した教科書は、上のリンクから目次にたどり着ける中にはありません。
「現代文B」の教科書は基本的に2年生で使用を開始し、3年生の終わりまで使います。
そのため、「二十三編」では作品数が少なすぎます。だいたい四十~五十程度は作品があり、2年生向けの1部と3年生向けの2部という2部構成(場合によっては上下巻)になっているものが多いです。

また、近頃で樋口一葉の作品を掲載する教科書は限られます。かつてはそうでもなかったと思いますが、現在ではどちらかと言えば教科書掲載作家ではマイナーな方です。(お札になりがいがないですね)

ところで、この樋口一葉の作品「たけくらべ」を掲載する教科書として、大修館書店の『精選 現代文B』新訂版(現331)があげられます。
じつはこの教科書、第1部の部分が、詩歌一つずつを一作品と数えれば、ちょうど二十三編がのっています。
さらに、樋口一葉以外で第1部に掲載されている女性作家は、小川洋子ただ一人です。
あくまで推測でしかありませんが、新井氏は大修館書店の『精選 現代文B』の第一部のみを一冊と誤認して、教科書の掲載判断を批判しているのではないでしょうか。

以上のように、

  • 極端な例を持ち出して印象を操作している
  • 提示するデータが実在するか確認できない(データ自体の誤認の可能性)

から、氏のデータの使い方が適切ではないと考えます。


新井氏の対談での発言に対する批判は以上になります。対談の後半部については、今回触れるつもりはありません。

国語という科目や教科書の掲載作品について、議論になること自体はいいことだと考えます。
しかし、現状の教育制度や前提を適切に認識し、用語を適切に運用したうえで、データを適切に用いなければ、妥当な議論は困難です。
もしそれができているのであれば、「現代文B」を途中から「現代国語」という存在しない科目名で話すことはないと考えます。
こういった議論の仕方をする方が他の方面でも適切に議論・データ運用ができるのか、といった疑問や、ジェンダー観に関する個人的な見解の相違がありますが、本筋からはずれるので、ここで述べることは控えます。

もし今回、国語教科書や文学作品にご関心を持たれた方がいらっしゃいましたら、公開されている情報や論文にあたってみていただければ嬉しく思います。

初記事で長くなりましたが、お読みいただきありがとうございました。

4月29日追記

たくさんの反応をいただき、ありがとうございます。
先に断っておくべきだったな、という点がいくつかあったので、追記します。

「現代文B」の教科書には、いわゆる「定番教材」以外にも小説が掲載されています。

よって、仮に「定番教材」がジェンダー的観点に欠ける(この言い方は雑過ぎると思います…)としても、それがすぐさま「多様性の低さ」に直結するわけではありません。新井氏がこの点に触れず、あたかも教科書掲載作品がジェンダー的観点に欠ける作品だけであるかのように語るのは、恣意的なデータ操作だと言えます。
教科書全体の「多様性」は他作品である程度補完されている可能性があります。実際に某社の教科書を例示しているので、氏が言う「多様性」はこちらの意味でしょう。
もしも、それぞれの作品単一での「多様性の低さ」を問題とするのであれば、究極的には、完全にダイバーシティな作品を提示しなくてはならなくなります。誰かが書き、誰かが選ぶという過程を経る以上、それは不可能です。
いわゆる「定番教材」に共通の性質を見出し、そこから「多様性の低さ」を導くのは早計と言えるでしょう。
さらに、あえて過激な言い方をしますが、ジェンダーの観点から問題がある作品だから、といって教科書掲載を否定するのは、ある種の文化浄化です。むしろ、かつてはそうだった、ということを私たちは知り考えるべきなのではないでしょうか。

教科書に載っていること=すべて教えるべきこと ではない

国語の場合、教科書に掲載されている教材のどれを授業で取り扱うかは、年間計画などを立てる際、教員が選べます。生徒の関心や習熟度に合わせて、生徒に必要だと判断した作品を教員が選んでいるはずです。
つまり、教科書に掲載されているからといって、すべての高校生が「定番教材」を読まされている、というわけではありません。
また、教材自体が教えるべきこと ではない点に注意していただけると嬉しいです。(ちょっと過激な書き方ですが)
教材そのものに触れてほしいというのはもちろんあります。しかし教材の内容を覚えることや、書いてあることを鵜呑みにすることに主眼があるわけではありません。
国語の授業では、内容を的確に読み取り理解するために、教材に書かれていることを確認する場合があります。本来はそれで終わりではなく、授業というのは、書き手や登場人物の思考や表現方法を学んだり、それをもとに生徒が思考したり何かを感じ取ったりして、自身の視野や思考、感性を養う、さらにそれを表現してみる、という営みのはずです。(ちょっとごっちゃになっている部分がある気がしますが…)
ですから、「舞姫」の豊太郎(主人公)はひどい奴だ、エリスに共感できない、という批判的な思考を導く、なぜ自分がそう感じるのかを考える、という点では「舞姫」はある意味で教材として成功していると言えるのではないでしょうか。

定番教材を考えるときに

新井氏の発言で難しいのは、氏が何を批判しているのか、という批判の対象が見えずらいことにあると思います。いろいろと混み合っているところなので、考えられる問題点(批判の観点・対象)を以下に箇条書きで整理(?)しておきたいと思います。

  1. 文学作品として良いor悪い(文学の作品評価的問題)
  2. 文学作品として悪いものを教材にするのは適当か(文学の作品評価の観点と教材としての評価観点のズレ)
  3. 「定番教材」で授業をすることは適当か(「定番教材」の教材性の批判)
  4. 「定番教材」は生徒の実態に適しているか(生徒とのミスマッチへの批判)
  5. 「定番教材」の実践授業は適当か(実際の授業と授業をする教員への批判)
  6. なぜ「定番教材」が選ばれるのか(選ぶ側の原因・理由)
  7. 「定番教材」化しているのはどのような作品か(作品の傾向)
  8. 「定番教材」は「指導要領」や教科書検定にかなっているか(主に検定をする側への批判)
  9. 「指導要領」や教科書検定は適当か(現行の教育行政批判)
  10. 現行の国語教育は妥当か(現行の国語教育観への批判)
  11. 「国語」という教科で何を教育するべきか(教育観の転換・問題提起)

などなど…
おそらくは教材性批判だったと思うのですが、ジェンダーの観点を持ち出して文学的批判と教材批判が分離できなかったこと、現行の教科書や教育制度を理解していないために事実と異なる発言になり、結果的に現行の教育制度や教育観自体を意図せず批判してしまっていること、などがややこしくなっている原因かな、と思うところです。

新井氏の関連発言も一応貼っておきます。
togetter.com

www.nikkei.com



追記も長くてごめんなさい。読んでくださってありがとう。

*1:4月29日URL追加

*2:4月29日修正:池上さんごめんなさい!